昭和56年3月1日月次祭★●●
お道の信心は、日勝り月勝り年勝り代勝りに、おかげが受けていかれる道を教祖金光大神は、教えて頂いておるのございますから、皆さんも御教え通りのおかげを自分の身の上にも家の上にも、周辺にもそれを現して、えー、行かなければなりません。
二月の一日が今までで最高の、おー、月次祭としては最高のご参拝であり、お届け数が、あー、三千八百何ぼ、三千九百、まあ四千に近い、いー、お届けがあっております。んー、一月後の今日、まだ分かりませんけれども、おそらく二月の一日よりも多かろう。お昼、今日の朝から今日一日の、このお広前でのにぎわいと言うか、もう本当に日勝り月勝りにおかげを頂いとる印が、そのように数字の上にはっきりこう現れて参ります。
十分、今信徒会長が言うておられましたように、ね、それをとりまとめるということが困難なくらいですもんね。えー、千何百家族と言ったように言われましたけれども、もう一つ御縁になるとまた変わっておる。しかもそれは、あー、沢山な、あー、数に上って行くのでございます。
今日も4時の御祈念にその事を、いわゆる日勝り月勝りにおかげを頂いておる事を神様にお礼を申させて頂いとりましたら、★楷書で「寿(ことぶき)」という字を頂くんです。ね。「寿」その寿と言う漢字が(はじんはち?)こんな漢字になりますよね。寿と言う字を漢字で書きますと。こう、ひし、菱餅(ひしもち)を(たてし?)にしたような漢字になりますよ。こう。
その中心のところが広いんです。ね。まあ、世間一般には、またそれが一つの、うーん、約束事のように言われて参りました事柄の、あー、事の中に、ね、「栄枯盛衰世の習い」と言うような事を申します。今日私が、今日の、いわゆるご参拝の多いかった事をお礼申させて頂いたら、丁度寿の真ん中にあたっておるところなんだ。こう真ん中にあたっておるところ。広がりに広がっておるところ。これから先は今度はこうなる。それが世の習いである。
ところが教祖金光大神様は、日勝り月勝りと教えられる。年勝り代勝り、子供の代より孫の代と繁盛して行く道だとこう言う。栄枯盛衰と言ったような、いうなら言葉はウソの事になる。金光大神の道をまともに頂いて行けば。いわゆる広がりに広っていくというおかげが受けられる。ね。それにはどういう信心をさせて頂いたならよいか。
まあ、例えばんなら今日は、私がお礼を申させて頂いて、おそらく、うー、今日の月次祭が、の一日のお参りが一番多い。なら、私が頂いた寿の真ん中の一番広いところ、これから段々今度は細くなっている、狭くなっているといったようなことではなりません。教祖の神様がね、ウソの御教えをなさっておられるはずはないという確信を持つと同時に、ね、それに沿わして頂く信心の向上が要る事になりますでしょう。ね。
そこで、ならどういう事になりますかと言うと。今朝から頂きます御理解の中にも頂いたものはね。いよいよ自分というものを空しゅうして行く。自分というものをゼロにして行く。今まで感じておったおかげが、ね、自分というものを空しゅうして行くに従って、ね、今までの感じておったおかげがね、十のものは百、百のものは千というように広がって行くのです。
これは最近私が思わせて頂きますのに、合楽では全ての事に「御」の字を付けて行くという御理解をもう長年頂いてまいりましたが、確かにそうだと思うて来たけれど、最近頂く事になってまいりましたが、今まではおかげではない、不浄である汚れであると思うておったような事柄の中にも、おかげと感じれるんですからいよいよ、おかげの世界が広なってくるわけです。ね。
お粗末であったご無礼であった不浄であった汚れであると、いうなら清い中にも、汚いと思うておった事の中にですら、おかげがあるということが分かって来た。これは今そこですから、これからまあだこれがどのくらいおかげの世界へ広うなって行くか分からん。そういうおかげを頂く為には、全ての事柄の中に自分を空しゅうする。いうなら我情を取っていく我欲をとっていく。ね。
例えば、10、そしてその次にゼロを付けると100になる。またゼロを付けると1,000になる。万になる。ね。自分というものをいよいよ空しゅうしていくということです。いうならば私の我と言うものが取れていくに従って、日勝り月勝り年勝りのおかげが頂いて行けれる。これで良いということはないのです。
昨日は、えー、竹葉会でしたが、まあいろいろ有り難いお話を頂きました中に、成り行きを尊び、成り行きを大切にすると言う合楽理念のまあ、芯所のように皆さんもここん所を行事ておいでられておるだろうとこう思う。ね。いよいよ成り行きを大切にして行く。尊ばせて頂く。ね。
それでいて、その成り行きを、がまあ、自分くらいのものの力では、とても頂けないような、あー、事がございます。そこで、やはり私が頂けれる、その、程度のことにお願いをして行く。成り行きを願って行く。ね。そして、成り行きを願って、そして、出てきた所の、を勝負して行く。そこんところを大切にして行く。
4、5日前は、大変雪の降りましたあの寒い、ローマ法皇が日本に見えておった時分でした。伊万里の川久保と言う方のご親戚の、まあ家庭の問題でしたがまあ夫婦別れの問題。ならその話を聞くと、もうほんとに、もういよいよ別れようということになってる。丁度その日も、その日が、親戚全部寄りまして、あの、もう夫婦別れの判までも双方が押して、えー、夜中になってそれからまあ帰られた。
ところがその、まあお母さんがあまりもの、おー、雪でとにかく帰りにくいだろうから、今晩泊まって、そして明日帰ったらどうですかということを言ったけども、もうそんな話の後ですから、やっぱり居辛いというか、その帰られる事になったんです。その事のお取次ぎを願われておる時に、もういよいよ別れると言いよるからできるものなら円満にしたいけれども、もう本人、本人同士で別れるとこう言っておる。もうぎりぎりのところまで来ておる。
だから、私は大体、せっかく縁あって一緒になったんだから、しかも子供まであるのだから、また一緒に仲良うやって行かにゃいけんというふうに大体申しますけども、この時だけは私は、もうどうぞ円満になるようにというような願いはもうなさいますな。成り行きを願っておきなさい。ね。
そしてもう、成り行きを願って別れるなら別れるで、その別れる事がおかげであるというふうに頂きなさいと言うて、まあ申しておりましたが、その雪の夜に、まあいうならば帰りかけられた。ところがあまりもの大雪で、えー、帰られなかった。とうとうやっぱり後戻りをして見えた。おかげでその晩、夫婦がまた新たな話し合いがでけたんでしょう。仲良うなって、明くる日は、お母さんの方が、もう別れちゃならんち言うごたやつが、一端別れるちゅうとってから今またそげな事言わすような、一幕もあるような中に円満におかげを頂いたというのでございます。ね。
成り行きを願うということはそういう事だと思う。ね。だからそこのところを頂いて行く信心。これもやっぱり、いー、竹葉会で発表されました。あー、石井妙子さんと言う方が一週間に一変ずつぐらいお花を各部屋部屋に入れて下さる。自分の家でお花を造られる。
昨日、一昨日お夢を頂いた。●そのお夢の中にやっぱりお花を持って、たくさん持って来てから、茶の間に、あの花の道具がいっぱい置いてございますから、その飾りになる物は全部出して、ところが剣山がどんなに探しても無い。「これだけの花を剣山無しには生けられんが」と思うておるところで目が覚めたと言う。これは今朝の御理解でした。
そうする御教えの中に「神のおかげを知らぬから互い違いになる」と教えられます。「神のおかげを知らぬから互い違いになる」ね。神のおかげをしれば身代もでき、人間、えー、日勝り月勝り年勝り代勝りのおかげを受けることができる。ただ神のおかげを知る、神のおかげがいうならば、十分かっておったのが百分かるようになる。百分かっておったのが千も万もとこう段々神のおかげを分からしてもらえ、今まではおかげとは思えなかった、汚い事であった不浄であった汚れの事のように思うておった事の中にも、やはりおかげであったと分かって来る。
そのおかげの世界が実感として感じられて来るだけおかげが大きくなって行くんです。私どもが感じておるおかげというものは、ね、それは、「もうほんとにどうしてこういう事が」と言う事の中にも、神様のおかげがある。最近は受験の時期でございます。シーズンですから、専門、高校、大学というふうに受験の願いがいっぱいあっております。ね。でけたと喜ぶ人、でけなかったと嘆く人、様々ですけれども、そのできなかった事の中に神様にお願いをし、お取次を頂いての事であるから、それをおかげであると頂けれるようにならなければならんのです。
ね、だからそのへんのところがなかなか難しい。お取次を頂いて、いわば成り行きができなかったということで、とうとうおかげ頂ききらんじゃったとこう言う。おかげを頂ききらじゃったんじゃない、神様はおかげを下さっておるのである。ね。熊谷さんと言やあ、まあ合楽でも有名な、あー、ご信心をなさるもう八十からのおばあさんですけれども、もう数十年間日参のおかげを頂いて、えー、どうして当時の椛目に打ち込まれたかと言うと、一人息子さんの大学受験のとっからであった。
高校では、もう太鼓判を押すようにこの人は、もうできると言うておられるほどしの、まあ大体、頭もいい方でしたけれども、とにかく三年連続して、えー、滑られた。慶応大学を受けられた。そして四年目。ね。とにかく人が不思議ながるぐらいであった。そして四年目でしたかね、めでたく受験のおかげを頂いた。
そして、えー、まあ、下宿につかれる。そして卒業される。もうその間の神様の働きというものは、こういう下宿におかげを頂く事の為に、こういう就職のおかげを頂く事の為に三年間ずれておったんだなと言う事が分かって来た。ね。もう最高の、最高のおかげを下さる事の為の働きであったということが分かった。ね。
おかげを受けてからではない。その時その時をおかげと分からしてもらうという信心。ね、もう、熊谷さんもよくお話の中に言われますけれども、あれがもし、一年でお願いをしておかげを頂いておったら、おそらく信心はもうあれ切りで終わっとったでしょう。また二年目、三年目として行くうちに、いうならば段々信心が分かって来た。いうなら合格もおかげならまた、落第もまたおかげであるというようなことが分かって来た。これは実感としてお礼を申し上げられるようになって来た。ね。
そこから、いうなら本当のおかげが頂けて来る。ね。勝つとか負けるとか申しますけれども、勝つ事もおかげならば負ける事もまたおかげであると言う、そこにおかげの世界は限りない。神のおかげをおかげと知らんから互い違いになってくる。本当のおかげが互い違いになってくる。ね。
おかげをおかげと分からしてもらう信心。それでまあお話を頂きますと、ほんとになるほどそうだな。あれも降ってもおかげだなあ照ってもおかげだなあということが分かります。けれども、実感として心から喜びが湧いて来ない、皆さんお話を聞けば天地の道理を聞けば御恩徳を分からしてもらえば、ほんとにおかげの中にある。朝目が覚めたということだけでも大変なおかげなのに、「どうしてこんなにしるしいばっかりだろうか」ということを言う。
もうこげなおかげはないのだけれども、しるしい。ね。おかげをおかげと分かっていないからである。そこで、なら、おかげが、神のおかげを知らぬから互い違いになる。神のおかげがおかげとして分かるようになれば、日勝り月勝り年勝り代勝りのおかげが受けられる。ね。繁盛に繁盛のおかげを頂いて行けれれる。
いよいよ、いうならばおかげの世界観、いうなら自分の心の中の世界が広がって行く。今までかつて感じたことのない喜びが自分の心の中に頂けて行くようになる。ね。不浄だ汚れと思うておった事の中にも、いうならば合掌せずにはおれないものを感じれれるようになる。
そういうような実感としておかげをおかげと分かり、感じられるようになるかと。信心とは、ね、分かる事だけではない。感じれなければいけない。ね。いわゆる実感と言うのです。その有り難いという実感の中に、目覚ましのおかげを頂くのですから、目覚ましのおかげを受けた事が有り難いのであり、今日一日の御用なら御用が、ね、いわゆる楽しい有り難いものになって始めて、「家業の行」ということになるのです。
うん、石井さんがお花を生けようと思ったけれども剣山がない。皆さんが自分の心の中に喜びの花を生け上げようと思うけれども、生け上げられない。分かっておるけれども有り難いという実感になって来ない。ね。その証拠にじゅつない、辛い。ね。何故、分かってはおりな、おるけれども有り難いという、いうなら喜びの花をここに咲かせる事がでけんか、生け上げる事がでけないか、剣山がないからである。
剣山と言うなら、まあ剣の山と言うても良いでしょうね。まあ、山は修行と教えられるその上に、こう剣が立っておるような山を越えて行くというのですから、いうなら険しい修行ということでございましょうね。その自分では、いや信心のなかった時には、まあ、ほんとにそげな修行はとてもできまいと思うような修行でも、信心修行に本気で取り組まして頂くと、それがやってのけられる。ね。
と言うても今、合楽では、あー、火の行水の行をするわけではございませんから、もうどこまでも家業の行であり、心行なのであります。ね。それをいうならば、剣山を登り切って行くような思いで、その行に取り組ませて頂く。「不思議に剣山がありますと、花が自分の思う所にとめることができるようなものぞ」と言うお知らせを石井さんは頂いておるんです。ね。
皆さんもそうでしょう。話を聞きゃおかげである事が分かるんだけれども、ね、なら試験でも合格すりゃ有り難いともう飛び上がって喜ぶごとある。もう落第と言うたら、やっぱおかげを頂いたと、ね、もうそれもおかげとして、こう頂けれる心が育ってない。ね。信心とはね、私は、そういうどんな場合でもおかげをおかげと、いうならば頂きこなせれる事なんです。
いわば金光様のご信心は、いわゆる「寿」ということはおかげということでしょう。「寿」ということですから。ね。けれども寿と言う字を字に書くと菱餅を立てたような漢字になるのです。今日私が、まあ、おそらく二月には四千名近いのお参りがあっておったが、ね、一月後の三月一日はどうであろうか。いやとても二月の時よりも、もっとにぎわったから、もっと沢山であろう。
もうその事をお礼申させて頂いておったら、こう頂いて真中の一番こう広い所。はあこれが三月のおかげの、だから、これから段々今度は少なくなって行くと言うのが、まあいうならば世の習いである。いわゆる栄枯盛衰をもう世の習いのように言うてきた。思うてきた。そうではない、金光大神の世界はもう限りなく広がりに広がって行く。いわゆる子孫繁盛家繁盛の道である。
そういう家繁盛と子孫繁盛の道だと威張っとるだけではつまらん。ね。それにはいよいよ、十というおかげを頂いたら、次にはまた一つこれに零が一つ加わって行かなきゃいけない。いわゆる空しゅうなって行く事がいよいよ、深く広く数多くなって行かなければならない。
このゼロ、この零、この空しい、ね、いわゆる我情を取った我欲を取ったというその事がね、一つずつ丸が大きくなって行ったらどういう事になるでしょう。ね。十は百であり、百は千であり、千は万というおかげにつながっていくようなおかげを頂きたい。それには私どもが、おかげをおかげと分からしてもらう、おかげの世界をいよいよ広げていかなければいけない。
話を聞けば、今言うように不浄だ汚れだと思うておった中にも、おかげであるということが分かる。そう、そうだなと理屈を、話を聞くとそうなんだけれども、それが、あー、おかげと感じられない。それはあなたの修行不足だということなるのです。修行もんなら荒れぬ行である。いうならば火の行水の行といったような行ではなくて、剣山と言うと厳しいけれども、その厳しい心を自分の心にいつも持って来る。
自分の家業の中に、その家業そのものが一から十までが、お商売をする人ならば、もう儲けんかなの為に、売らんかなの為に、の商売ではなくて。ね。お客さんが喜んで下さる神様が喜んで下さる。いうならば自分中心ではなくて、神様中心の信心、生き方、お客様本意とこういうふうに申しますが、いうなら合楽理念を持ってお商売をさして頂くならば、どこまでも神様本意の信心である。
神様本意の信心にならしてもらう。それがスッキリすればするほどに神様がまた、氏子任せになって下さる。氏子本意の働きを現して下さる。いよいよおかげの世界が広がって行く。いよいよ自分というものが空しゅうなって来る。今日も宮崎の、おー、方が大きな箱のお供えをなさった。
「あの、これは何ですか」と言ったら、「カボチャです。家でできましたカボチャです」
「もうこの神様はカボチャが一番好きですからね」と言ったら、始めて参って来た方ですから「はあ、カボチャは神様がそげん好いとりなさいますか」ちゅう顔をなさいますから、カボチャの説明をしたことです。ね。
この辺りでは、カボ、この辺ではボウフラち言います。ね。「もうあん奴ばっかりはボウフラんごたる奴」ち言います。馬鹿んごたるとやら、あほんごたるとをそげん言うんです。けれども、合楽ではこのボウフラカボチャにならして頂く事を習うんです。いわゆる自分というものを空しゅうする。ね。自分というものを、いわば我情を捨て我欲を捨てるところに、ね、いうならば馬鹿とあほうで開かして頂く道が開けて来るのです。ね。
いよいよ、偉大とか大きいとかと言うけれども、こんな大きな信心はありません。ね。いよいよ我情を取っていく我欲を取っていくたんびに、一つこのゼロが付いて行く。自分を空しゅうして行く信心。ね。
昨日、これも竹葉会で秋永嘉朗さんの奥さんが発表しておりましたがね。お夢を頂いた。●もうとにかく合楽教会が雲を突くような大きな教会になっておる。そして、親先生が仰っておられるのに、今度の、いうならば今度のと言うのは、この寒修行を一つの転機にして合楽の信心が確かに変わって来た。ね。
だから、一転、転機転機に、いうならばこの度は十名の人が死ななきゃならないと言うておられる。その十名の中の死ななければならない一人の中に、秋永ユキコさんが入っておられた。もうほんとに親先生が死ねと仰るならもう、一日も早く死にたい、早く死にたい。どんなふうにして死のうかということばっかり考えておった。夢ん中で。
そしたら、あー、死なんでも済む、いうならば自分の我情とか我欲を取っていき、死んだと思うて欲を放していけということであった。ね。今度合楽が大きくなる為には、ここに十名の人が死ななきゃならない。犠牲になる。ね。と言うのは、今日私が皆さんに聞いて頂いた、えー、自分というものを空しゅうする。自分というものを空しゅう、神様を本意の信心にならせて頂ける人が、十人育たなければならんと言うのでございましょう。
とにかく、今度の、おー、大会のテーマが合楽、うー、理念の未来像を目指して、でしたかね。というふうに私頂いた事が、あー、まあ焦点ですね。目当てとしてお互いの信心を進めて行く。もうたいへんな事なんですよね。いわゆる合楽理念に基づく生活の、生き方のできて、いよいよ、えー、日勝り月勝りのおかげの頂けれる事実を、いわば実際の見本を手本を皆さんが示して行って頂かなければならない。
しかも、それをいよいよ全世界にも広げて行こうと言う大きな願いである。ね。ですから皆さん、今日合楽に御縁を頂いて、ね、おかげを頂かれる方達が、まずはそういうおかげを頂いて下さい。一切の事に「御」の字が付けられる。どのような場合であっても私を空しゅうでけれるいうなら信心。そういうおかげの頂けれる手立てが合楽理念なんです。ね。
どうぞ、今日私が頂きましたその「寿」と言う字が、ね、真ん中の一番広かった所で終わって、そして、後は段々またすぼって行く。世の習いのように。栄枯盛衰が世の習いのような頂き方ではなくて、もういよいよ、親の代より子の代、子の代より孫の代と広がって行けれる事の為に、いうならば真の信心をさしてもろうて、いつでもどんな場合でも、自分が馬鹿になれるあほになれる。ね。自分というものを空しゅうして行けれる一つ手立てをいよいよ、ほんとなものにしていかなきゃならんと思います。どうぞ。
明渡 孝